子どもの宿題を機会に、わたしの心の見方を変えたこと

 夏休みが明けて、緊急事態宣言に伴い、子どもの小学校も分散登校となり自宅学習の日がちらほらありました。

リビング学習をしている子どもから聞こえてくるのは、算数の文章問題の意味が分からないというもの。確かに、大人のわたしにもすぐに理解できないものも多く、主人を巻き込むこともしばしば。

 その度に、わたしの頭を過ぎるのは、理解ができないのは、うちの子だけなのかな? 本を読む習慣をつかせなかったから? 読み聞かせは、ムダだった? そういう考えが次々と出て来て、不安になってきました。

 立ち止まってわたしの心を観察してみると、このままだと、子どもは人から見下されて、将来自分の好きな道に進めなくなるのではないかという恐れがありました。

本を読むことは絶対的にいい事だという私の思いこみにも気付かされました。この世界にいい、わるいはなかったのだという事を思い出し、また一つ手放す機会を頂きました。

 何より、わたしの中に、人を見下したり、見下されたりする世界があるという、見方をしていたということは、本当に見たくなかったものでした。

この様な分離の思いから見る世界は、見下されない様に、常に細心の注意を払い、足りなさを埋めるためにアレやこれやと忙しく探し回る必要がある一方、何をしようと、どこまでいこうとそこに平和がないのは確かです。

 でも、わたしには、たった今、平和を選び、安心のこころで、子どもと算数の文章問題に取り組むということもできます。わたしが平和を選ぶとき、過去への後悔や未来への不安や心配は存在しません。

いらいらのリビング学習にするのか、子どもと愛と光をみる機会にするのかは、常にこのわたしの心の選択にかかっているのだと思い出してホッとしました。


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