子どもを送って行くいつもの朝に気づきをいただく

朝いつもの日常の人との些細な挨拶という出来事。

その中でまた自分は出来なかった、相手のスピリットを見れていなかった、嫌な思いをさせたのでは‥と心を傷つけ自分を責めるということを繰り返してしまうことを見ていました。

頭では分かっていても止められない。

気がつくと自動的にまたその重苦しい気持ちと考えの中車を走らせ仕事に向かっていると、道の真ん中で野良猫がウンチをしている真っ最中でした(田舎の一本道の旧道)。

こんなことは流石に初めてで何だこの経験は??と文字通り一時停止して終わるのを待っていると、『あなたの今の考えてることって野良猫がウンチしてるのを見てるくらい意味ないことだよ』とでも言われてる気がしてプッと吹き出したいような気持ちになり、今日の奇跡はこれかぁと思うと同時にエゴはシリアス、という言葉が頭に浮かびました。

そしてわたしとひとつである兄弟を信頼します、という今日のレッスンも思い出しました。

私は私の周りの人たちを兄弟をまるで信頼してないじゃないか。

なぜ私が上手くしてあげないと相手の気持ちを害するだなんて決めつけているの。

それはとても失礼なんじゃないか。

なぜならそれは相手に私はあなたを信頼していません、と言っているのと同じじゃないか。

そう思うとフーッと心の力が抜けていく様な感じがしました。

しかも私が思っているより相当根深い何十年間のため息で‥。

 改めて気付いたのは子供の頃から周りの人と上手くやらなくてはいけなかった環境(小学校を3回転校したり)や逆にそれが出来てしまった私の性格故に、周りの人に合わせてその都度自分を後回しにして心を見失うようなコミュニケーションの取り方を大人になったそれこそ今日まで30年くらいし続けてきたということ。

子供が保育園に入ったことでそれを追体験し、何もかもに気を回しすぎて混乱してなぜか毎日傷ついて。

でもそれを手放すところまできてるんだ、このスピード感はすごいな‥と思いながら、

でもそんな長い間持ち続けてきたものやしがみついて来たものを手放し捨てるというのはそりゃ怖いよね簡単じゃないよね、と最近の気持ちの混乱を責めるのではなくて、優しくみることもやっとできたような感覚。

そして私にはもうエゴの思いは要らないだから捨てるという決心。

もっと周りの人を信頼して任せればいい。

私は私の真の自己に向かって神の家で安心していればいい。

そんな気持ちです。ホーリースピリットに感謝します。




タグから検索
タグから検索
アーカイブ