「頑張れ」と「頑張ったね」の間   香咲弥須子

4/30/2012

春休みを利用して、日本からはるばるCRS を訪ねてきてくださったACIM のお仲間がいます。若く溌剌とした、小学校の先生です。ぴかぴかの一年生、という言葉がありますが、ぴかぴかの先生、という感じの方です。「ニューヨークは、どこへ行っても、何をしていても、みんなやさしくて親切ですね! 道行く人も誰も彼も」とおっしゃることからうかがわれるように、どんなに機嫌の悪い人でも、彼女に対してだけは、微笑みながら接したくなるような愛らしい方です。

 そのぴかぴかの先生が、帰国後、「メッセンジャー」という雑誌を送ってくださいました。2年前に発行された号です。香葉村真由美さんとおっしゃる小学校の先生のお話が巻頭に載っています。
 
 その先生は、生徒さんたちからことのほか好かれ、また、ことのほか、教師であることに誇りと喜びを持っていらっしゃったのですが、あることが起こって、「階段から崩れ落ちるように、わたしは崩れていきました」とお書きになっています。
 
 その、あることとは、卒業生の自殺でした。それはもう大勢の卒業生が大好きな先生に元気な姿を見せたくて訪問するのですが、その卒業生は、実は自殺未遂を繰り返していたと言うのです。けれども「もう大丈夫。だから先生に会いにきた」。先生は、「いのちは大切なものだよ。頑張らなきゃね」と励ましたのだそうです。そして、その再会の直後、卒業生は、薬を大量に飲んで、生命を落としていたということを、先生は、後に知ることになったのでした。
 
 なぜあのとき、頑張れ、などと言ったのだろう。なぜ代わりに、「よく頑張ってきたね」と言えなかったのだろう。いのちは大切だ、とか、頑張らなきゃね、などという言葉は、先生ぶった、”上から目線”だった・・・。

 


 教師として、母として、人間として、自信を失ったと書く真由美先生は、てんつくマン監督の映画との出会いをきっかけに、人生に対する新しい視線を獲得していき、その後数々のすばらしい経験が記されているのですが、先生の転機のきっかけとなった、ふたつの言葉、「頑張れ」と「頑張ったね」との間には、ほんとうに大きな違いがあると、改めて思いました。

 


 「頑張りなさい」と口にするとき、わたしたちは、相手を、自分から引き離してみています。相手を、ひとりぼっちの戦士に仕立てています。
 
「一緒に頑張ろうね」と言うとき、そこに込められている思いは、今はまだまだダメだけど、努力すれば、よくなっていくよ、というものです。相手に、あなたはまだ未熟なのよ、そのままではだめなのよ、という信号を送っていることになります。


 「頑張ったね」という言葉が出るとき、わたしたちは、批判の代わりに、共感しています。共感によって、「あなたはひとりぼっちじゃない」ということを伝えています。それにまた、「頑張ってきたあなたの今は、最高」ということも伝えています。 
 
 自分と相手が、ふたりとも、「ひとりじゃない」「愛に包まれている」ことを感じ、またふたりともが、「今の自分は最高」と感じられるなら、それはもう、怖いものなしの、限りない力が発揮されるのではないでしょうか。
 
 雑誌を送ってくださった先生のぴかぴかの心が、深く伝わってきました。こんな先生たちがいるのだ、と、ほんとうにうれしく安心しました。
 
 真由美先生は、何か「わるさをした」生徒がいると、「なんでそんなことをしたの!」とは怒鳴らず、「何があったの?」と、抱きしめるそうです。そんな共感に包まれて育つ子どもは、なんてしあわせでしょう。
 
 じゃない会のベビーのママたちも、ぴかぴかだったと思い出しました。いつまでも、ぴかぴかでいましょう。子育てとは、共感の心を「自分のなかに育てる」こととも言えると思います。そして、親子ともに最高!にぴかぴかに輝いていることが、教育というものの目的なのかもしれないな、とも。

<じゃない会>五月クラス、もうすぐです。ぴかぴかのみなさんも、「自分ではとてもそんなふうに感じられない」とおっしゃるみなさんも、ぜひともご参加ください。お帰りの際には、みなさん全員、ぴかぴかですから。。。

p.s. 香葉村真由美先生のお話全文、てんつくマンの映画や活動について掲載されている雑誌は、CRS にあります。ご興味おありの方は閲覧していただけます。

香咲弥須子

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