西小山クラスレポート⑧

10/2/2015

瞑想

「やすらぎの場所」じゃない会ホームページ・瞑想ガイドより

 

Aさん

今日は、この瞑想だけで帰れるような気分です。

普段生活していて、この安らいだ静かな場所に居ることをキープすればいいのだと思うのですが、例えば、朝起きた瞬間から、娘がパパとケンカしていたり、衝撃的なことが起きたりすると、そっちにグラッと持って行かれて、そこから怒涛のような一日が過ぎていくというようなときは、要所、要所で、戻ろうとすればいいのかしら?

今朝は、ペットが粗相をして、部屋中が汚れてしまって、せっかく、娘が移動教室で出かけている静かな穏やかな日なのに・・と、ペットを怒っていました。(笑)

 

美智恵

娘さんが、居ても居なくても、怒っているんですね。(笑)ということは、娘さんだけが原因じゃなくて、Aさんが怒りを持っているということですね。

思い出したら戻るということを意識的にしていくうちに、怒鳴りながらも、愛の場所があるのだから戻らなきゃ・・と引いて見ている自分というのに気づくときがくるかもしれません。冷静になったときに、愛の場所から、もう一度見てみると、いろんな気づきがありますよね。愛の場所に戻るということは、たとえば、子どもとの間に信頼を見るということだったりして、そうすると言うことが何もなくなりますが、黙って見ていると、「この子は、案外大丈夫なんだ」というところが見えてきます。それで、やっぱり、自分の恐れの目線で子どもを見ていたことに気づいて、安心を見るということを選ぶことができます。

 

Aさん

そうですね。いつも怒りの材料を探しているかもしれないです。 テレビを観ていても、弱い人や子どもの虐待などのニュースで怒ったりしています。わたしが、「そうしなければいけない。」「親だからするべき。」ということを、思いすぎているのかもしれません。それで疲れてしまったりすることありませんか?

 

Bさん

わたしは、逆に、「親なんだから、それぐらいのことはしてよ!」と言われることがあります。(笑)

今は、子どもの年齢が上がってきているので、「あなた、自分でやりなさい。」と返しますが。

子どもが小さい時も、やれることはやってきたけど、「するべき」というように考えたことはないです。自分をオープンにして、気負わないので、ラクにやっていました。子どもがそういうレッスンをさせてくれたのかもしれません。

 

Aさん

Bさんは自然にやれているんですね。娘は小5になって、口答えするようになってきて、「わたしには、こういうこと言うのに、ママはやってないよね?それでいいわけ?」などと突っつかれてしまうので、「ちゃんと、やらないと・・。」っていう気持ちがあります。小さい頃は、親が少し強く言えば、従ってきていたのに、なんだか親子関係も変わってきて難しさを感じます。中学生くらいになると、もっと大変になると聞いたのですが、そうなのでしょうか。

 

美智恵

わたしも、娘が思春期に入ってから、親子関係が逆転したような形になりました。娘に追い詰められ、悲しみと虚しさを、何度感じたか数えきれないくらいです。学校や部活動の仲間に迷惑をかけることもあったので、周囲の目も気になり、「親として、ちゃんと、やらないと・・」という思いでいっぱいになりました。その負い目から、学校の役員を引き受けたりして、思春期の娘との難しいコミュニケーション、慣れない学校の役員、休めない仕事、溜まっていく家事、と、いくつものことに追われていて、精神的にハードで疲れていました。

だから、娘がちょうど義務教育を終えることをキッカケに、全てのことを娘に任せようと覚悟を決めたら、とてもラクになったんです。子どもが小さいと、まだまだ、口を挟みたいことだらけです。事件に巻き込まれるようなことがあってはならないし、事件を起こしてもいけない。「親が守らないといけない。」そう思うけど、本人に任せる、他人の目を気にせず、子ども自身に体験させ感じさせる、ということを、もっと、早い段階でしておけばよかったと今は思っています。今は、娘に任せているので、わたしが何も言わないから、娘からの反応もありません。なので、一見、平和ですけど、多分、台風の目の中にいるだけであって、わたしが本当の平和を得られたわけではないことはわかっています。だから心配や不安で、グラッときたときは、わたしは、どこに居たいんだっけ?と、その瞬間に愛を見るということを、ホーリースピリットに助けてもらって、何度でもやっていこうと思っています。心のミニマリストを目指します。(笑) 心に必要最小限のものしか持たない、つまり、愛しかない状態に、できるだけエゴを捨てたい、恐れを削ぎ落していきたいと思っているんです。

 

Aさん

捨てられるものですか?

 

美智恵

エゴの全てを捨てるのは出来ないです。捨てようと思って捨てたつもりでも、また、拾っていることがあるし。

捨てるというのは、やはり、赦しを経て、自然に消えていくものだと思います。

 

Bさん

エゴと戦わずに、受け入れることをやり尽くすといいと思います。自分の怒りのパターンがわかって、怒っている自分を味わい尽くすということをすると、そのことに反応しなくなって消えていくという経験をしたことがあるので、とにかく、やっていくことが大事だと思います。必要以上に、エゴをいけないものだと思わなくてもいいですよね。

 

Aさん

わたしは、エゴに対して、要らないものだから手放したいとばかり思っていて、受け入れるということをしていなかったです。

 

美智恵

どんなエゴを見たとしても、それは本当の自分ではないし、わたしたちの源は、罪を知りえない、互いに等しい存在だというのが今日のレッスンです。エゴを受け入れるということも大事だけれど、わたしたちは、本当に神聖なんだということを、受け入れていないから、エゴはダメなもの!というふうに、なっているんだと思うんです。罪を見ないということは、特別性を見ないということなので、「親なのに」という、親子の特別性を見ない。わたしが生んだけど、わたしの子じゃなくて同じ神の子だし、親であるけど、親じゃなくて等しい神の子だというふうに心から見れたら、信頼感も増すんじゃないかと思います。

 

Cさん

前回のじゃない会から、1か月の間にいろいろあって、今、ノートに自分の感情を書くようにしているんです。

感情は要するに知覚だから、それを手放したいと思うけど、だけど、簡単に手放せないから、とりあえず、ノートに、とにかく書いて、読み返したりしたときに、「あの時の感情は薄れてきているけれども、忘れたくない感情もあるな。」と思う時もあるんです。外側で起きていることは、ただ勝手に起きているだけで、それを、わたしが、どう受け取っているかというのが、わたしにとって、すごくいい勉強になっているんです。なので、絶対に無駄にしてはいけないと、外側で起きる出来事は、真剣に向き合う材料になっています。怒っているときも、「これは、相手に怒っているんじゃないよね。自分の中に怒りがあるということを、今、確認しているよね?」と、そう思うと、例えば、息子に怒りながらも、「ごめん。これ、ママのことかもしれない。」というふうに、言えるようになりました。そのとき、息子は、ほんの数分、門限を破っただけなのですが、塾や部活などではなく、ただ遊びに行っていただけだし、そこに女の子が居たと聞いたので、事件や事故も心配なので、そのことについて話し合いました。息子の言い分も聞き、その言い分は理解できましたが、「夜、遅くなっても、近所だから事件は起きない、すぐに帰れる。という、甘えや安易さがあった気がするのだけど、そういうものはありませんでしたか?」と話しているうちに、ちょっと待って、そんなことは、わたしにも、いっぱいあるじゃないか?ということを、息子を通して気づきを感じて、「それは、ママにもありますね。今、気付いたから、これから直していかなきゃいけないよね。」ということになりました。そうしたら、息子もたまっていた思いを吐き出してくれたんですけど、でもやっぱり大人になるまでは、いつ危険がどこにあるか、考えてほしいと話しました。

例えば、高校生なのに、お酒やたばこを勧められたら、断るのが格好悪いからと言って勧められるままに口にしてしまうのか?それは断れない自分の心の問題じゃない?ということも話しました。

1か月前のわたしだったら、門限の遅刻も、なぁなぁにしていたかもしれないんですけど、今、自分が自分自身に、すごく、向き合っているので、人生何も起きなければ平和かといったら、そうじゃなくて、いろんなことが起きるからこそ、自分が平和な心を取り戻さなきゃいけないということなんだなということを、すごく感じるようになりました。爆弾のような出来事があるからこそ、気付くのだなと思うし、エゴは死ぬまで一生あるんだから、それは仕方ないので、自分の感情を書きとめるという心の整理の仕方はすごく有効ですよ。

 

美智恵

爆弾のような出来事が起きて、それについて自分はどんな思いをもっているのかを、くまなく観察して書きだすというのは、素晴らしいやり方だと思います。そこに書きだされたエゴは要らないもの、手放したいものですね。そのエゴがなくなった暁には、どんな自分になりたいかというのを、そこまで書いてみてもいいですね。どんな自分になりたいか・・と書きだしたものが本当の自分なんです。

なりたいか、ではなくて、そういう自分になることを、わたしたちは赦していないわけだから、書き出したエゴを、本当に手放したいか、よくよく自分の心をまた観察して、本当の自分を受け入れる準備をしていかれたらいいと思います。そうしたときに、恐れは消えるか、Bさんのおっしゃるように、こんなエゴも、これもわたしなのだと受け入れなどをしたときに、問題は、問題じゃなくなるんです。

 

Bさん

平和な本当の自分、ここに行きたいんだ・・と、本当の願いにたどりつくまでの、経験をしているんだと思うんです。その本当の願いを、雲や霧で隠しているので、その向こうがあるということに気づき、そこに行きたいということを願うまでの経験ですよね。

 

Cさん

爆弾のような出来事は、「もう、目を覚ましなさい。」という神様からのギフトで、それを奇跡というふうに思える時がくればいいなという感じでいます。

 

美智恵

コースでは、祈りとは感謝そのものだと言っています。ノートに書きだして、本当の自分を知り、感謝する。

生きるということは、愛を与えていくことだと思うし、相手も愛だと見ることで生かしていくこと、愛をきちんと使えるようにしていくということが、わたしたちの役目だと思うんです。そういう自分たちになりたいと願っていること、それこそが本当の自分なんだとわかって感謝することが祈りだと書いてありますね。

わたしたちは、普段通りに生活しながら、いつでも祈ることができるんです。

そのプロセスを見ることが奇跡だし、奇跡は今も起きているんだけれども、受け取っているんだけれども、今は、渦中にいるから、落ち着いて振り返ったときでないと、奇跡として見られないだけかもしれないですね。

でも、そういう自分も赦していくことですね。

 

Aさん

発達障がいがある娘をフォローするために、親としてできる限りのことを調整したりしてきたんですけど、最近は、まず、娘を見るときに、マイナスから見るのは、やめようと決めました。というのは、そこをマイナスにしていると、自分の評価もマイナスになるからです。マイナスになる必要もないのにマイナスに見ていた。この子の命の輝きだけを見ていようと思いました。それをやり始めてから、娘も落ち着いてきました。

10歳になって、まだ出来ないこともあるけど、出来ることもすごく増えてきたので、出来ることを、もっと伸ばしていこうと思い、母親としては、「この子を伸ばさなきゃいけない。」と普通の母親以上に気負いがあった気がします。だけどそれも、もうやめようと思っています。わたしが、チョロチョロ動いたところで、たいした差じゃなくて、それよりも娘の成長に目を向けたほうがいいんじゃないかなと思って、反抗期もあり、日々、いろいろあるんだけど、とにかく、命の輝きを・・と思ってそこに戻っていくことにしています。

そうしていると、登校前に不安を訴えることが多い娘が、何事もなく一日を過ごし、帰宅してくるんですが、忙しくて雑然とわたしが過ごしていると、いろいろなものが出てきたりすることがありました。いろいろなものが出てきたりすると、「わたしが命の輝きを見るという、そこにいなかったから、今日はこういうことが起きた。」とか、悪いことを受けいれたくないし、操作しようとしている自分が、今日は見れたので、起ることは起こるから、それを受け入れていくことが大事なんだなということを、今日は思いました。

どの子を見ても、愛の存在、うちの娘と変わらない同じ愛の存在だと思うと、平和に過ごせるのだけど、でもやっぱり、学校生活の中で、やってはいけないことや、いろいろ注意しなければいけないことがあるんですが、「わかっているけどできない。放って置いてほしい。」と、娘が一番、葛藤してイライラしているし、言われたくないと思います。だけど言わなきゃ、それが放置状態になってしまいます。信頼はしているし、愛の存在だと思っているけど、学校生活の中では、学校の評価が絶対になってしまうので、日々のこういうことをどう見ていくか、そこが難しいです。

 

美智恵

できること、できないこと、度合いは違っても、誰にでもあることですよね。

 

Aさん

そうなんです。障がいという名前が付くだけで、その本質を問うと、そんなことはないんです。発達の専門の先生は、差別された少数派民族、と言っていました。学校で一斉に何かしたときに、できないことがあったり、自分は普通にやっていることを注意されたり、高学年になったことで要求されることも多くなってきて、できないことを本人は自覚して劣等感を感じたり、娘はわけもなく不安を感じたりしています。

でも、学校に行っている間は、あまり幸せじゃないかもしれないけど、家に帰ってくれば好きなことに熱中できる豊かな時間もたくさんあるということに、わたしは気づけたので、大丈夫ですが。

大変ではあるけど、そういう娘を持つことで、「勉強ってなんだろう?学校の勉強ってなんだろう?本当に物事を理解するってなんだろう?」っていうことって、突き止めて考えたりすることって無いと思うし、「友達ってどういうことだろう?人間ってどうなんだろう?」と、そこにまで目を向けなかったと思うので、それは、もうギフトだったな・・と思うし、なかなかいい経験もさせてもらっています。

反抗期はすごいけど・・(笑)

どう見ても間違った選択をしていると思うときに、「それ、間違ってると思うよ。ママはこう思うよ。」と言うと、「じゃあ、わかったよ!ママの言うとおりにすればいいんでしょ!!」と、言う通りにはしてほしいけど、お互いになんだか居心地のわるい感じになってしまったり、どうしたらいいのかなと思ったりします。

やってもやらなくてもいい、というくらいにしておくのがいいのかなとも思ったりもします。

 

Bさん

そういうの、ありますよね。子どもが自分で迷っていたり、それを決めてほしかったりしているのかもしれないですよね。でも、わたしが何かを言って、子どもがそれを選択してしまったら、ちょっと自分の中に罪悪感が残ったりするような思いもあれば、「何かあったら、ママのせい」にして欲しくないという思いだったり、こちら側のエゴが騒ぎますよね。いずれにしても、いろんな思いが湧くわけだから、自分のレッスンにしかすぎないのかもしれないから、「間違っているよ」と言ってもいいのだと思います。

やってもやらなくてもいい、というふうに、大人のわたしたちも思えてないから、それを、子どものうちから、「やってもやらなくてもいいんだ」というところから、選択できるというのは、素晴らしいことですよね。

 

Aさん

進学するにしても、大学にいくための中学、高校だったりするから、6年間、ただ大学に入るために勉強させられて、クラブ活動をして、そのために生きているというか、それじゃ、もったいないですよね。こういう子を持っているから、そこまで考えたりするけど、そうじゃなければ、わたしも、中学も高校も、きちんと考えて選ぶということをしないかもしれない。でも、今、「異才発掘プロジェクト」というのがあって、発達障害や不登校で、才能を生かせていない子どもたちのための取り組みがあって、時間はいくらでもある、と集中力を途切らさずに打ち込める授業をしているんですが、本当にスゴイ子がいっぱいいるんです。「きみたちは、そのままでいいんだよ。」と認めてもらえるんです。

 

美智恵

学校だけじゃなく、社会に出てからもその才能を発揮できる社会であってほしいですね。

 

Aさん

そうです。発達障がいの子たちには、社会に出てからのほうが長いから、社会で生きていく力をつけていくのが大事で、それを優先的に勉強させていくんです。それは、普通の子でも皆そうだと思いますけど。

 

美智恵

普通の人を普通の人とは言わない世の中になるといいですね。そういう、カテゴリーもエゴが作ったものだから、そのような枠にはめない子育てをしていきたいと、つくづく思いました。

ありがとうございました。

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